つれづれと

色々なことを書く

アロマンティックと坂田銀時

性的欲求を他者に抱かないは理解されてきたような気がするが(それでもまだ足りないが)恋愛感情を他者に抱かないはまだ全然理解されていないのでは?と思う日々。

アセクシュアルという単語を聞いたことある人はいるかもしれないがアロマンティックはあんまり知ってる人少ないと思う自分も調べるまで知らなかった。

万事屋布教記事でもさらりと書いたけど自分は銀さんは性欲はあるけど恋愛感情はなさそうだよな〜と思っていてそう解釈してる。その属性はセクAロマに当てはまるんだろなその場合と思うし何のことはない私がセクAロマの人間であるのだった。自分の属性を無意識に好きな漫画の主人公に投影して読んでいるんだろうか。わからない。ただ銀さんの恋愛感情が誰にもなさそうな雰囲気が無意識に私を救っていたのだろうと思う。私の世界の見え方がそうなのであった。

セクAロマ、どうやらAセクAロマの人口よりも少ないらしく、ロマAセクよりも少ないっぽい。具体的な数値は知らない。自分も聞き齧っただけなので。恋はするけど性欲は湧かない、ああ、なるほど、とか思われるんじゃないか、世間にも。Aセクはなんとなくなんか分かってもらえるんじゃないかわからんけど。恋はしてるんでしょ?なんて、なんて、さぁ。

恋愛感情はないけど性欲はあるんすよ自分、とか言ったらどんな印象を持たれるかはなんとなく想像はつく。だからわざわざ言う必要もないなと思っていた。誰とも付き合う気がなければ結局言わなくても問題はないのである。付き合う気がある人はなんかまた別の悩みを持ってるんだろうなと思う。

性欲があるのと他者と性行為がしたいかは別なんだがこの社会、どうせ混同されてる。だから言わん方がいいのである多分。でもロマAセクの人よりも少数派だと知って心の小箱が壊れ溢れてしまった。わけのわからん疎外感の理由を見てしまってはもう、

だからなんだという話で

縋っている。恋をしない人間がいる。確かにここにいる。そして思ったよりきっとたくさんいる。恋ってなんだろうか。自分は幼稚園の時や学生の時ならしていたけど今は拒否反応があるから多分途中から指向が変わったのだろう。指向が人生の途中で変わることはよくあることだ。だから現時点の自分は、という話で未来はわからない。しないでも生きていけるしなんせ愛がある。愛があれば生きていけるのである。だから愛をたくさん抱えて生きる。恋をしない人間がただここにいる。在る。上手く言えないが釣りをしない人間がいるようなものだ。別に釣りが好きな人がいるのは分かるしそれで楽しんでる人達がいるのは良いことでいいんじゃない、と思う。大きな魚が釣れたら嬉しいとかのんびり釣り糸を垂らす時間が大事とかそういう気持ちや楽しさも想像できる。だから恋もそんな感じの認識でいる。楽しんでいる人が多くいるのは良いことなんだしいいんじゃない、とか思う。上手く言えないな。恋をしないで生きてる人間がいること社会は認めてないんじゃないかってよく思う。しないでそのまま人生を終えてそれで最高な人。愛があればいいやんけと思う。恋ってそもそもなんだ。あれ、なんか、身勝手で、怖い感情だなぁ、と実は思う。なんか上手く言えない。上手く言えないな。この疎外感が。

言葉にできない。坂田銀時がアロマンティックなことを私は夢想していてそれは私自身のための空想だったから原作者の思うところは知らないので埒外の話であった。他の人の解釈も知らない。知らないというかまあ創作ってそういうもので自分とどう響きあってるかの話であるから自分が自分を救うために誰かの物語の手を借りるのだ。だからどうかどうかと。

恋愛感情がなくとも人への愛がありゃ生きていける。最低の人間ではない。しろ、しないなんてかわいそう、そのうちできるよ、こわがらないで、とかそういう言葉は想像だけで既に苦しいから実際にはもっと要らない。これは言わなくてもいいことだった。これは言わなくてもいいことだった。これは言わなければ気付かれない話だった。言わなければ私も「まだ恋をしてない」人間にされるの? 私はただ生きているだけだった。テレビから流れるドラマの音が苦しい。あれはやっぱ人間が演じてるから苦しいのかな。共感できない情報が溢れてそれに口を閉じて生きている。どうでもいいが。生きているだけ。

恋って名目で人同士の無理解や無知や暴力を無遠慮に表現して発表するのやめない?

 

意味がわかんねぇな。意味がわかんねぇよ。苦しい疎外感を

 

アロマンティックの概念がちゃんと浸透するまでどれくらいかかるのだろう。