つれづれと

色々なことを書く

なんか色んな人が突然凄く怒っているように見えるのは

多分突然なんかではなかったのかもしれないし、人によっては突然なのかもしれない。

ここでは人権問題などに対する怒りについてを書く。

性的マイノリティーに関する話や、男女格差に関する話なんかも人権問題だ。と、自分は思っている。

仕事に関する諸問題も人権問題に入ると思っている。生活の一部の話なので。

人権に関する問題は大人が考えなきゃいけない問題なんだろう。子供が考えてはいけない、という訳ではないが。専門性は大人の方が持っているはずだ。多分。

 

怒りとはどういう行為か。

怒りにもただ感情である状態とそれが発露されて行動に移された状態がある。

これは個人的な持論だが、怒り、という感情は基本的には人間の身にない方が良いと思う。ただこの世から怒りがなくならないのは、淘汰されないのは、何か必要な理由があるからだろう。そう考えて、それは、何か大事なものを守るためなんじゃないか、と思った。自分のために、自己のために、人間のために。大事なものを守る時に使うために、人間は怒りという感情を手放さずに今日まできた。という仮説だ。個人的な。

つまりは使い所が大事だ。怒りという感情の使い所が。手当たり次第に怒っていては、心身ともに消耗してしまう。し、印象が良くない。

何か自分にとって大事なものを守るために、“怒り”という行為を使う。怒りのコントロールが出来る人間が、それでも怒る時、それはそんな時なんじゃないかと思う。

(基本的に感情は生まれてきてしまうものだが感情の発露は大体の場合意識的にしろ無意識的にしろ手札のようなものだと思っている節があるのでこういう持論になっている。)

 

だから、タイトルに戻るが、それだけ多くの色んな人が大事なものを傷付けられる問題が横たわっていて、せめてこれ以上は傷付くことがないように、怒っている、のだ。

人権は、大事なものである。と、割と最近知った。というか気付いた。

このように突然気付くことがあるために、突然、怒る、ということがある。

もう一度言うが人権は大事なものである。(ただ自分は人権を大事にしない奴の人権は大事にしない方針でいるが。)

なんでそうかというとここが大事なとこだと思うんだが、“そうでないと”だからである。人間は社会的動物だ。どうやら社会というのは人権を大事にしないと上手く回らんものらしい。二十数年間生きてきた感覚で言うと。大事にしなくたって短期では回るだろうが長期となると恐らくそうはいかない。もし諸問題が解決しなければ人口が減り続けるだろうことがなんとなく分かる時点で現にそうなっている、と思う。

だから人権は大事なものである、と、せめて大人は定義してそのように運用していかないと、社会というこの人間の住処がだめになる。大体道徳的な観点から言えば言うまでもないことだが。

それに気付いた人が怒っている、とも言える。いやそうじゃない場合もあるかもしれないけど。

 

怒りという感情はたくさんのエネルギーを消耗するから、使い所を見極めなければいけないし、触れれば、怒っていない他者もエネルギーを使う。触れれば負荷がかかるのを分かっているから、怒っている人に、あまり近付きたくない、という感情が湧く。

だから怖くないよ、とは言えないし、実際、本当に別件で心身を消耗しきっている人にとっては、それ以上消耗しないためにも、あまり近付かない方が良いだろうと思うし、近付けないのは、怖いと思うのは、しょうがないことだと思う。

実際自分も元気が出てきたからこういう問題に触れられているんだろうと思う。まあそれでも消耗はするのでこうして行き場をなくした感情をどうにかしようとして記事を書いている。

それでも考え続けないといけないと思うのは、自分も一応自分の人権が大事だと思うからである。この人の生きていく権利を大事にしたいな、と思える人が結構な数いるからである。一応、人間社会の一部でいる自覚があるからである。

疲れていたら、触れられなくても構わない、と自分は思う。

話のオチを考えずに書き始めた。ともかく、怒っているのは、大事なものを守るためで、大事なものを傷付けていく問題が解決して無くなれば、怒りのコントロールが出来る人は、そこで怒りを鎮められる。でも、問題がなかなか解決しない。解決しない間は、きっと誰かがそれぞれのタイミングで怒り続けるだろう。それが各所で起きているということは、問題がそれだけ大きいということだ。問題が、誰かの大事なものを傷付け続けているということだ。そして、人権とは、大事なものである。大事なものである、と決めておかないと、社会がきっと悪くなる。多分あなたも死ぬ。

自分の人権、大事にしていきたい。