つれづれと

色々なことを書く

何かを書く日々の話。

とりあえず一日一記事更新すればいいという感じで日記らしきものを日々つけている訳だが、今日もなんとなく書きたいので何かを書く。

最近は動いてないと暇で仕方ない、という有り様で生活しているのだがその動く範囲は一般的に見ると客観的に見るととても小さい、動く、というよりは何かしていないと、と言い換えられる。が、その何かする、もそこまで能動的かと言われると、いや、ラジオトークを配信するのは能動的じゃないか? 能動的だと思う。十分。

暇なら働けば良いのだ、というのは個人的感覚において最もなのだがそれを薄っすら考える段階と真面目に考える段階と実行する段階において大きなそれなりの段差がある。まず自分は働ける心理状態なのかもよく分からない。一次的に働くことができても継続的に働けるかと言われると、考え始めると脳が思考ダウンする。そんなこんなだからバイトすらまだ始められてないのだが、もうしばらくだけ第一段階と第二段階とそれ以前の段階をふらふら彷徨っていようと思っている昨今である。回復している感覚はある、からとりあえず十分ということにしておいてもらえないだろうか。

そんな訳で元気が出始めているゆえに暇、というのがここ最近の状態であるのだが、散歩をしたり、ホットケーキを焼いてみたり、図書館に行ったりラジオをしてみたり音読してみたりブログを毎日書いてみたりして時間を使っている。あととうらぶをしている。里はもう七万玉集め終わったため今はただひたすら里レベリングを繰り返している。もう八万玉まで行った。

図書館に行って得た有益な情報は本の中にあることで、これは大事なことだった。

承認欲求のデカさを感じる日々であるが、これに関しては何と言えばいいのか、ただ逆に卑下しきって何もあげられないよりかはいいんじゃないかと思っている。お察しの通り今まさにブログを書いて時間を使っている最中である。

自分の文章がこの世に何が出来るか、ということについて考えている。私の最も私の中で自信がある行為が文章を書くことなのはここまで見ていたら言うことはない。

文章、が、魅力的である。文章を書く、行為が。

 

反応を仮に貰っても貰っても満たされないものは満たされないことがあるのだが確かに満たされることもあって反応がまるでなかったらなかったですぐ不安になるのは自意識の問題なんだろうか。反応が一つあるだけで舞い上がるように嬉しい。よく言われていることだ。ここにいる、何かをしている、何かをした、ということを発信して、ただ、見ている、認識している、認識した、ということを返されるだけで嬉しい気持ち。それは根源的な欲求ゆえなのか? 分からないけれど。

話しても話しても話し足りず書いても書いても書き足りない。だが飽きは来る。そこまで動き続けるだけだ。運動をしている。

どうか誰かを癒せたらいいとは思っていて、それはできているだろうか? できていたら教えてくれたら嬉しいな。

 

歌うように書く。歌うように、というのは流れるように、という意味で今使った。

ざわざわとざわめいていて落ち着かない。働けるんだろうか、分からない。苦しめば働けるだろうことは分かる。五体満足だ。苦しみたくない。

人間的に働いて生きて、生きていきたいだけである。ささやかだろう?

 

単純にお腹が減っているのだろう。それもある。今ぬいぐるみを抱き締めた。落ち着かせる。お腹が空いているからだ。怖くない。

 

今日は選挙カーがよく鳴いている。そういう季節なのだ。

 

イマジネーション。星が浮いている。旋回する。ふわふわと漂っている。流れる。星が、上げ下げして、止まり、横へ移動し、またふわ、と浮く。星がある。光が、僅かにあって、ちいさく光っている。