つれづれと

色々なことを書く

小説を書く。

小説、ということを考える時に私はここではないどこかへ行く。

言いたかっただけだ、あまり気にしなくていい。

ともかく何か書くことが大事だ。書きたい、という気持ちが湧いても書くことが定まらない。ただ書きたい、という欲や衝動だけが湧いてくる。書く、という行為は運動の一種なのかもしれない、そうしていいのだと、保坂さんの本を読んでいて思った。

本を読むというのは本を読んでいる間その本の中の時間にいることで、全く自分が今存在している世界の時間のことは忘れてしまう。かと思えばその都度思い返したりしていて、一種忙しがない。これはネットで小説を読んでいる時にも大体同じことが言える。私はその間ここではないどこかにいる。が、体は確かにここにいるままなのだ。時間が止まっているとか、足りないとか、そういう話をしているのではない。というのも、また、保坂さんの本を読んだ影響での文章の流れであるが。どうにも、読んだ本に脳内で流れる思考の文章が影響を受けやすくて、こうなる。まあともかく、保坂さんの本を読んでいると、どうしようもなく自分も何か文を書きたくなってくるから、こうして書いている。このまま、書き続けたい。が、いつか止まる。飽きとか、浮かばないとか、または我に返るとかだ。この我に返る、というのも随分と社会的な話で、社会性を意識した言い方だと思う。社会性に縛られて、息が、できるけど苦しい、僅か苦しい、というそういう経験を思い出して、また苦しくなる。まあともかく、(同じ言葉を繰り返しているな)自分の中にいる他者の意見らしきもの、他者の視点らしきもの、というのは、どうにも厄介だ。

書きたいなら小説そのものを書けば良いとは思うのだが、その小説のネタが上手い具合に落ちてこないし、この社会性というのが厄介で、ツイッターなんかにずっといると重箱の隅をつつく人が世の中にたくさんいることが肌身で分かってしまうから、どうにも心が怯えてくる。ネットの色々なものを見ていてもそうである。そして結局は、自分もまた承認欲求を抱えていたりするから、それを意識して書く手が止まる。これはウケるだろうか、つっこまれないだろうか、そんなことをつい考える。で、結局は手の届く範囲、なるべく早く終わらせようとして、文章がどんどんと短くなってゆく。なるべく早く終わらせようとする。

 

二次創作というものについて考えるが、あれは人様の作品を借りて創作するものだから、それなりに神経を使う。一次創作とは加えて、使った方がいい神経がある。一次創作はその点楽で、生み出したのが自らなため、好きなだけ好きなようにできる。好き勝手できるので息がしやすいし、筆も進みやすい。二次創作を一次創作のように書く人もいるにはいるのだろうが、というかそれくらい進みが速くないと各イベントの締め切りに合わせて同人誌を制作し、書いたり描いたりすることはできないように見える。あれは、凄いスピードだなと思う。二次創作というのを、人は何故するのだろうか。無論しない人もいるのだと、知ってはいるのだが。ネットを見ているとしている人ばかりのように見えてくる。そんなことはない。何か創作をしている人は多いが、それに二次創作が入っている人というのはその分の人だけいる。まあ三次創作者というのも中にはいるが。

最近自分は過去の自分が書いた一次創作をネットにあげるというのを繰り返しているのだが、まるで過去の遺産を食い潰しているかのような、居心地の悪さと恥ずかしさを感じる。感じる、が、有り難いことに喜んで読んでくれる人がいると知っているため、あげている。本当に有り難い。で、ならば一次創作をもう一度今の年齢でまた何か書き上げればいいじゃないか、と思っている。思っているができるかと言われると自信がない。何せ締め切りがないので。そして締め切りを作ると苦しくなるのだろう。まあ苦しまずに書いた一次創作はないのだが過去のものの中でも。百四十字程度の文章、あるいは千字に満たない文章なら書いていないことはないのだが、できれば三千字くらいはある文章をまた書けたらいい。保坂さんの本を読んでいて、小説を書く、ということをまた考え、うきうきとした、わくわくとした気分を思い出し、自分も書きたい、と、思いが立ち上がってきている。さて、何の話を書こうか。また星の話でも、いいだろうか。