つれづれと

色々なことを書く

うるせぇ、ばか。

特段に今怒っている訳ではないが思い出すだにうるせぇ、ばか。となる事柄はある。

私にとってたとえばそれは大学の頃文芸サークルで機関誌を書くにあたり、サークル運営のHP上で掲載前に一度推敲という名目でサークルメンバーに小説を読んでもらう必要があり、その時の先輩から頂いた批評だったり……だとか話し出したところで面白い話ではない。

うるせぇ、ばか。と私が代わりに言おう。うるせぇ、ばか。と思ったことが直近で二つ、三つ、ほどあり、いやもう三つとかいう問題ではない。事はもっとたくさん、そこらに蔓延っていて、私達を苦しめている、というと表現が矮小になる。ああそうだ、私はまた保坂さんの本を読んだ。だから文章の調子もそんな感じになる。なってるだろうか。まあそれは置いといて。

うるせぇ、ばか。生きてるんだよ。生きているんだよ。尊べ、ばか。

私達は生きている。生きていなきゃ今ここにいない、というと些か詩的だがしょうがない。ここに存在している。

 

今でも忘れがたい大切な記憶が、

いわゆる「クソリプ」と呼ばれるツイートをまったくの他人からもらったことがあり、その内容がただのクソならいざ知らず、何を思ったか心の大事な部分を土足で踏み荒らす酷い文章だった。今でも思い出すと痛むが、そう痛くないのは、いや、言うほど痛くないのは、どう考えてもフォロワーさんのおかげである。フォロワーさんは、私がその辛さと悔しさをツイッター上に呟いて吐いたそれを見て、私の代わりに、いや、私の代わりというのは違ったかもしれない、フォロワーさんは、フォロワーさんの怒りで、そのリプを送ってきた相手に対し、抗議をした、と、呟いた。私がそれを見た瞬間、どれだけ救われたか。私はあの瞬間知ったのだ、人は、自分が傷付いた時に、自分の人権を蔑ろにした相手に対して、自分以外の、他者が立ち上がって声をあげてくれることが、どれだけ感情を救うかということ。あの瞬間、フォロワーさんは私の記憶を「赤の他人から無遠慮に酷いことを突然言われた」記憶から、「大切なフォロワーさんに心を護ってもらった」記憶に変えてくれたのである。それを理解して、どれだけ心震えただろうか。今でも思い出すと、泣きそうになる。人を救うというのは、記憶を塗り替える、思い出す時の、感情の色を変える、そういうことも人を救うことの一つで、大事なことなのだと、知った。自分の代わりに他者が怒るということ、それは、怒ることすら剥奪された自分の権利が、他者の内に、復活するということ。それが響き合って、「自分」は、自分の権利を思い出す。そしてその権利の行使がもう終わったことも理解する。擦り切れてもう動けない時に、状況が動いたことを知る。自分を傷付けた相手がどうなったかは重大でなく、自分の代わりに、怒った人が、いたということ。

自分を想ってくれた人がいたということ。

 

だから思うんだが。うるせぇ、ばか。

うるせぇ、ばか。何度だって言ってやるよ。うるせぇ、ばか。

何度言ったって足りないくらいそんなことはあるんだ。色んな人に起こっている。

うるせぇよ、ばか。うるせぇ。生きてるんだよ。

尊べ。

うるせぇ、ほんとに。ばか。ばーーーーーーーーーーーーーーか。

 

生きてるんだよ。

 

 

 

 

 

 

もし、きこえますか。

今日も生きているなら、そのままでいてくださいね。

いつか会いましょう。

会えなくても会いましょうね。

美味しいもの食べてくださいね。

美味しいものいつか、一緒に食べに行きましょうね。