つれづれと

色々なことを書く

福田雄一監督の実写版銀魂に足りないと思ったもの

結論から言えば銀魂という作品の、魂がない、と思った。

 

銀魂というタイトルなのであれは銀の魂の話である。

その魂が何なのか、どんなものなのかは読者によって印象が多少異なるだろうが、まあ大体信念、という言葉に置き換えられるものだと、思う。思っている。

「己を護るのではない 己の魂を護るために」という松陽先生の台詞が作中あるが、私はあれを作品の柱になるレベルの台詞だと思っていて、銀魂という作品のあり方が詰まった台詞だなと思う。あとは「魂が折れちまうんだよ」とかも。

自分を護るのではなく自分の信念を護れ、と言っていて、それが結果的に自分を護ることに繋がっている。

 

俺にはなァ 心臓より大事な器官があるんだよ

そいつァ見えねーが確かに俺のドタマから股間をまっすぐブチ抜いて

俺の中に存在する

そいつがあるから俺ァ まっすぐ立っていられる

フラフラしても まっすぐ歩いていける

ここで立ち止まったら そいつが折れちまうのさ

魂が 折れちまうんだよ

(第四十三訓/銀時)

 

作品の中ではとても大切なこととして語られる魂。登場人物のほぼ大体がこの魂を持っている。そして己の魂を護るために、折れないように、戦い、人を護っている。

その軸が初期からずっとブレないから、物語もブレないし、読者の中に立ち上がる登場人物達の強度が強い。これはこういう作品だ、という印象も、信頼も。

大事なのはあくまで己を護っていることだ。自分のための行動だというエゴを、微塵も隠す気がない。登場人物達は皆そのことに自覚的だ。むしろ誰々のため、と言うのが性に合わないような奴らばかりいる。結果的に人のためになっている行動を、第一に自分のためとして行っている。それが、この漫画の格好良くて、強く惹かれるところだ。そして、この漫画が教えてくれるとても大切なことでもある。

ようするに作者はとても性善説を信じてるんだな、と感じるが、実際のところはまあ分からない。それでも人間を信じていることは違いないだろうと思う。生への肯定。人生への肯定がそこかしこに滲んでいる作風だ。銀魂がデビュー作だが読み切り作品は何作かあって、その読み切り全てにも同じことが言える。そんなところが好きなんだが。

さてそれが福田版銀魂にあるのか、という話だが、とりあえず、実写一作目の「銀魂」では上記の松陽先生の台詞を次のように改変している。

「己を護るのではない 己の魂と、大切ななにかを護るために」

これに関してはツイッターでも散々言ったのだがまず陳腐ではないだろうか。己の魂と、大切ななにかを護る。結構。細かい改変なため感想を漁っても原作ファンでも触れている人をついぞ見かけなかった部分だが、自分の中では結構な大事であった。それで、ああこの作品にあの原作にある魂はないんだな、と思った。

言葉遣いというか台詞遣いが気になるのは原作者があの空知先生の作品なのだからしょうがない。言葉にとても気を遣う先生なのだ。たった一つの台詞で一日を費やすような漫画家なのだ。そんな漫画家の描いた作品なのだ、あれは。

知らない、という人は東日本大震災の際に週刊少年ジャンプの企画の中で、彼が書いたメッセージと絵を見て欲しい。それだけでもきっと伝わってくるものはあるだろう。

 

魂がない、ということはその魂が実写版を通しては伝わらない、ということになる。

私は銀魂にあるその魂によって人生の指針が決まり、現在でもずっと救われている性質なので、その機会が失われたのかもしれないという想像は、悔しさがあり、とても惜しくもある。とてももったいない。本当に本当にもったいない!!!!!!!!

もし銀魂の魂を読んで、理解して、身に沁みて、そうして真摯に表現しようとしてくれた監督の作品だったら、どれだけの人に伝わり、どれだけの人が、救われたのだろうか。

これはとてももしも話だ。私の想像の中だけでの話だ。

ただ惜しかった、そう思っている、という話だ。

そこに誠実に取り組まなかった監督の罪は重い、と、私が勝手に思っているだけのことだ。

 

監督は銀魂を面白いと思ってくれているがその面白さはどこから来るのかきちんと把握できているのだろうか。あれは確かに無茶なパロディを繰り返してそのギリギリ感にとても吹き出したりするのだが、前提として、どこまでも真剣でどこまでも本気だから、というのがある。ギャグにも真剣だし、シリアスにも真剣。そこでギャグの方向性は実は監督とは対極にあると気が付いた。まあ気が付いても普通に2は決まったんですが。

かと言ってまあ監督が決まった瞬間に大喜びしたのもこちらである。まあこちらなんだけど……うん……あの時はヨシヒコの人だぁ!!!って驚いて喜んだものだけど…………。

それとパロディやメタ発言以外にもギャグ要素はあって、というかそちらの方が割合としては多いのだけど、ようするに抜群な台詞の切れ味に笑いがある。監督は作風を見るに切れ味を削いで削いで削ぎ落すタイプの笑いの使い手のようなので、実は相性が悪いのだがあの監督気付いてんだかないんだか。あと、役者の変顔も多用するが原作の方は表情で笑わせるよりは明らかに台詞で笑わせる数の方が多い。むしろ無表情の冷めた顔から発される辛辣な、あるいは怠惰極まりない発言により笑わせてくる。何故か監督は細かいところまで原作の言い回しと変えてくるので、しかもそれが原作よりももたついた響きのものが多く、場合によっては意味合いまで変わってしまっている。気が付いているのか? というか、言葉にそれほどこだわりと執着がなくてよく銀魂を再現できたと思ったな?

全てに自覚的なのかそうじゃないのか分かったものではないが、3をやるのだとしたら、そしてそれからも続編が続いていくのだとしたら、回を重ねるごとに少しずつでも原作の表現に歩み寄ってくれると、原作ファンとしては、嬉しい、の、だが、これは我儘かな………………。監督だって仕事でやってるんだしな……俺の笑いは世界に通じると思ってやってるんだもんな………………………なんで?(純粋な疑問)

 

空知先生には一応緊張と緩和、という笑いの哲学があって、その緩急、ジェットコースターぶりに読者は心酔しきってる訳だけど、福田監督の持ち前の笑いについては何分こちらが不勉強だ。多分目指してるところはリビングでお酒でも飲みながらだらだら見てゲラゲラ笑う、というところなように見えるのだが、それはそのまま映画サイズでやって合うものなのか、というところはある。「ある種ある種ある種」は初見では思わず吹き出してしまうが、映画館で二回目を観て、果たしてまた笑えるのか、まあこれは個々人のツボによるんだけど、笑いのツボを気持ちよく何度も刺激できるのか、計算はされているのだろうか。あの明らかに役者が素で笑ってしまっているのを見るのも、ああこういうとこで笑わせたいんだな、と初見は微笑ましく見られるが(?)。

なんとなく銀魂らしさというものをズレて捉えているような気がする。というかほとんど福田監督らしさだろ。混同するんじゃない。

身内を必ず出したいのもわかるようでわからない。これは人様の生み出した作品であって、監督のオリジナルではない。監督色に染めてやろうという意図ならまあ目的は分かるが、だとしたら銀魂らしく、とか再現できた、とか言うのは止して欲しい。風評被害にもなるし。それならもう胸を張って銀魂は俺が占拠した、くらい言ってくれた方がいっそのこと銀魂らしい。ちょっと違うか。それ銀さんに倒される悪役がやるやつだ。(いや別に金髪でもストレートでも超合金体でもないんだが)

なんだか普通に愚痴になっているな。

 

とまあそういうことで段々と普通に愚痴になっていったが実写版について思うことは大方そんなところである。細かい内容に言い出したらキリがないので割愛する。

それでも実写銀魂という祭りを、その中心核にある作品を遂行してくれたこと、人生の一部を銀魂に注いでくれたこと、そのことに感謝はしているし、尊敬の念もある。やはり映画を一本撮るのは凄いことだ。たとえ元ネタはあるにしても。

ただまあだからこそ歯ァ食い縛れ、はっ倒してやる、とは思うんだがな????????(情緒が不安定)

結果的には。さてはて次の結果は、事の顛末は、どうなるのか。まず次があるのか。

もし3があるならこの目で一度は確かめたいのと、他の人の感想が読みたいので、また一回は観に行くと思う。吉原炎上篇かな? 神威は出るのかな??? 個人的に四天王篇はやめてほしいな……あれは聖域なので……(まあ全部聖域ではあるんだけど)

そんなこんなで書きたくなったので書いたら3500字を超えた。なるほどな。(?)

以上です。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。